@article{oai:oka-pu.repo.nii.ac.jp:00000962, author = {柴田, 奈美}, journal = {岡山県立大学短期大学部研究紀要}, month = {Mar}, note = {子規と漱石は、共に明治維新前年の慶応三年に生まれ、世界に比肩し得る日本文学を創出することに意欲を燃やした。しかし、両者は「西洋に対する日本文学」を考える時、その考え方は大きく異なっていた。  まず、子規は士族の精神を「高尚」とし、日本文学では幸田露伴の「風流仏」を具体的にその精神の表れた作品と考え、小説家になることを断念後も、士族のもつ「高尚」の精神で俳句を革新しようとした。また、その方法は、西洋の文化を日本文学のために、できるだけ採用しようという、当時儒学者たちの一般に抱いていた考え方を継承しており、西洋理論を迷うことなく、俳句革新に採り入れていった。  一方、漱石は子規の士族の精神に対するものとしてホイットマンの“manly love of comrades”を挙げている。また、ホイットマンの「時問的平等」という考え方にも共鳴し、今までの日本散文学に日本を代表する作品は無いとし、これから作り上げていかねばならぬとしている。ただし、俳諧趣味については、西洋にはない文芸として日本独自の文芸として評価した。ロンドンに留学し、西洋文明に反発を覚えた漱石は、価値判断の核となるものを、俳句から得た趣味に求めたのである。しかし、漱石はあくまでも人間の心理の葛藤を描く小説の道に進んでいった。この点は、ホイットマンが天然をテーマとせず、人間の交流をテーマとしたと漱石が指摘した点に一致している。若き日に研究したホイットマンの影響が、漱石の晩年にまで大きく影響していたことが明らかである。}, pages = {(1)--(10)}, title = {子規と漱石-対西洋と日本-}, volume = {4}, year = {1997}, yomi = {シバタ, ナミ} }